株式会社マネーパートナーズ ホームページ寄稿 二〇二〇年 五月
コロナウイルスは万人の予想を超える猛威を振っている。最早単なる保健問題ではなく、経済、社会、政治、安全保障等々の分野を巻き込んだ全文明的なパンデミックになった感すらある。目下の所は何しろ終息の見通しが全く立たないので、話が混乱するのは仕方がない。しかしこれから段々と状況が明らかになり、将来の展望も見えるようになると、その時にはわれわれはこの出来事がわれわれの存在にどういう変化と課題を齎し、われわれはそれにどう対応しなければならないかという本格的な、歴史的な問いに直面することになるだろう。
コロナウイルスが人類に齎した問題は大ざっぱに云うと二種類ある。一つは、個人、家族、企業、国家というようなさまざまな主体がこれからどういう性質、相互関係、行動様式を持っていくのだろうかという問題であり、もう一つは、これからの世界はどういう仕組みと力関係、換言すれば秩序の下で動いていくのかということである。
一九八〇年代から世界にはさまざまな変化が次々に起こった。冷戦の終了、IT革命、金融産業の急拡大、ユーロの誕生、グローバリゼーション、資産バブル、リーマンショック、ユーロ危機、習近平の登場と中国の台頭、環境問題、難民問題、トランプ大統領当選、BREXIT、ポピュリズムとナショナリズム等々である。この結果、コロナウイルスに襲われた時の世界は第二次世界大戦後七十五年続いた「戦後の時代」が正に歴史的な転換を遂げようとしている最中だったのである。そのため、コロナウイルスが世界に及ぼす影響とそれへの対応は否応なしに複雑で難しいものにならざるを得ないだろう。
例えば、グローバリゼーションは国境を低くして、ヒト、モノ、カネ、情報が自由に動けることを目指すものだった。しかし、コロナウイルスはヒトの流れ、ヒトの接触を禁止する。この一八〇度の転換はどう処理されるのか?
また例えば、リーマンショックが世界経済に与えた打撃は、信用の枯渇と需要の崩壊だった。われわれはこの経験から学んで、中央銀行の機能の改善とか、サプライチェーンの見直しとかの努力を進めていたことは間違いない。しかし、コロナウイルスで起こりつつある被害は、その拡がりと奥行きの深さにおいて、文字通り想定外の深刻さである。
考えてみると、二十世紀以来人類が遭遇した災害と云えば戦争、テロ、自然災害、環境破壊と云ったものだろう。今回のコロナウイルスが従来の災害と違うのは、その被害が数字で計れる「規模」の問題だけでなく、これから将来に亘っての人間や社会や国の「性格」を変えてしまうのではないかという不気味さにあるのではないか?
今は未だそれが何時のことか判らないが、この災害が過去の話になった時、振り返って見てわれわれがそれにどう対応したかを検証することは大事である。十七世紀の初め、英国はペストの蔓延でロンドンは都市封鎖の状態だった。その中にあってシェイクスピアはマクベスを書き、リア王を書いた。そしてニュートンは万有引力の法則を発見し、微分積分を発明したのである。日本でも十三世紀初頭は疫病、飢饉が猖獗をきわめ、京都の大路小路には死骸が転がり、加茂川には死体が沢山浮いていた。しかしその中で後鳥羽上皇や藤原定家等は日本固有の文学様式である和歌の金字塔とも云うべき新古今和歌集を完成させていた。「艱難汝を玉にす」と云うが、人間は馬鹿にしてはいけないのである。コロナウイルスと悪戦苦闘しているわれわれは、実はシビアな歴史のテストを受けているのである。